眠れない

働き出してから睡眠リズムはずいぶんと安定したのだが、やはりちょくちょく崩れがちで、なかなか十一時に寝れない。ダラダラネットをしているのがよくないのだが、これをしないとどうも開放されたという感じがしないのだ。アニメ視聴を控えた分、生産的な時間の使い方ができると考えていたのだが、これは大きな間違いだったようで、目的のある時間の使い方が出来なくなってダラダラ傾向に拍車がかかっただけであった。不覚である。

数少ない自分の快感をコントロールしたいというのが希望なのである。勉強したり、金儲けの思案をしたりで幸福感がかんじられるようになれればどんなにいいことか、と思うのだが、現状そうなっていない。働けば金は入ってくるが、金のためになにかしたいという気力はぜんぜんでない。無職のときより可処分所得は多いのだが、どれくらいの労働時間で何が買えるかと小難しく考えるようになってから急に購買意欲がなえてしまった。もともと衣食住には無頓着だったのだが、最近は模型を買うのにも楽しみを見出すことができない。金を落とすほどの娯楽も見つからないし、勉強のために本を買っても今度は気力がないで、どうも閉塞感を強く感じている。また、おしゃべりする相手がいないのも不幸な感じに拍車をかけているようで、ずっとモヤモヤして心が晴れない。いっそ旅行でもと思うのだが、途中で電池切れを起こしたらどうしようと不安で外出するのも億劫なのである。

軽い抑うつ状態なのかなあと思うのだが、突破口がみつからないでいつまでもウジウジしているのはいい加減しんどい。気が晴れない状態をこのまま続けていたら、精神的にむやみに追い詰められていって自殺してしまいそうで怖い。逃げたいが、逃げても愉しめるとは到底思えないという無気力状態で、もうどうしていいかわからない。ソープでも行って人肌にでも触れるのがいいのかしらんと、風俗童貞の俺はなんとなく考えている。セックスはあんまり好きじゃないが、裸で抱き合うのは好きなのだ。ただ、気をゆるせるかどうかとか、お金に見合う価値があるのか、とかでためらっている。ひきこもりは警戒心が強いのである。

以上。ぐだぐだのままだが、おわり

2013アニメと俺

心の病気になってからアニメを見はじめて、社会復帰しはじめた2012ごろからよく見るようになった。僕にとってアニメは批評してあれこれいうものではなく、共に生きていくものだったように思う。たとえば、「彗星のガルガンティア」というタイトルをみると社会に出はじめてひどくつらかった時を思い出すし、「マジェスティック・プリンス」というタイトルでは、彼女と別れて辛かった時に視聴していたことを思い出す。1クールアニメは三か月の期間を一緒に過ごすことであり、2クールアニメは半年の間付き合っていくということで、軽々しくクソだとか切って捨てられるようなものじゃないのだ。

たとえば、賛否両論では否のほうが多いであろうジェットコースターアニメ「サムライ・フラメンコ」や「革命機ヴァルヴレイブ」にも、いとしい気持ちしかわかない。自分の人生も激動していたので、こういう作品で心を遊ばせることができたのはすごくありがたかった。世間様に感情移入できない自分が、唯一感情移入できる対象がアニメとかの創作物だったから、感謝こそすれこき下ろすことなどできない。

 ただ、最近はアニメを少しずつ視聴をやめている。ちょっと現実に立ち返りたいとおもったのだ。

再生

  • 久しぶりに病院と薬局行ってきた。デパスだけで大丈夫だといったら、良くなりましたねと歓迎された。いちばんきつかったのが不眠とそれに伴う生活リズムの乱れだったのだが、最近はすんなり眠れるようになっている。頓服だけで大丈夫みたい。 

    やはり、安定して仕事が続けられているのが大きいのだと思う。殺伐とした職場だからこそ、自己保存の本能が鍛えられるし、憎む相手が決まっていれば、自分を責めないですむ。こういう職場環境は長くは続かないだろうが、ともかくも小康状態を保てているのはありがたい。また、忙しくなった結果、過去のことで悩まなくなった。夜中に煩悶することが減ってありがたい。 

    あいかわらず土日は動けないが、少しずつ勉強を再開している。ネット漬けの習慣さえなんとかすれば、もうちょい頑張れるかなと思う。趣味の模型をやめるつもりはないが、実利的な能力をつけないのだ。ここにずっといれるわけがない以上、転職してもやっていけるようにしないと。いまの会社はアレだが、この業種は好きなので、スキルは身に付けておきたいと思う。

信頼できる人を失う

にっちもさっちもいかなくなったときについ依存してしまう人がいた。夜中に電話かけたり、会ったら愚痴をこぼしたり。優しい人だから我慢してくれていたけれども、昨日の朝、もう、そういうことはやめてほしいと言われた。

自分なりには、頑張っていたつもりだった。迷惑であるとはわかっているから、連絡の頻度は少しずつ減らしていったし、口を慎んで喧嘩にもならないようにした。けれども、相手のことおかまいなしに自分の気持ちだけを話す癖は抜きがたく、そういうところが相手に伝わって、不快にさせてしまったのだろうと思う。

荒野に投げ出されたように独りになった。気持ちに寄り添ってくれる人がいなくなった。それは、たぶんいいことなのだろう。相手にも人生がある。僕のよりも開けた人生だ。この先のオレの人生は、そうぱっとしたものではないし、自分の苦しみで迷惑を被る人がいなくなることはいいことだ。少なくとも、傷つけて後悔することは減る。

それに、迷惑だとはっきり言ってくれたのも、一種のやさしさなのだろうと思えるようになった。自分でもこの依存を断ち切りたいと願っていたから、ハッキリと相手の言葉で拒絶してもらえるのは助かる。わらをもつかみたい気分のときに、拒絶されたことを思い出せば、どっちも苦しまずにすむ。

その人にはだいぶ自分の判断をゆだねてきたから、今僕は漂流しているような気分で毎日を生きている。心細いし、自分のポンコツさには嫌気がさす。けれども、あの人がいないのだから、僕はこんな自分を楽にしてやる、それだけを目的にできる。誰かのためにはなりえない自分だからこそ、自分を幸せにするためだけに生きようと思える。

クズだけど、普通の人には一生なれないけれど、それでも、自分を許して、自分を全面的に受け入れてくれるのは自分だけだ。両親に愛情を感じてこなかったので、ずっとそうだった。救いがあると信じたのが間違いだった。そこは、変えられないし、不可能なことに執着すべきではない。

ただ、打ちひしがれているときに弱音を吐く相手は必要だ。生きずりの相手でも、風俗でもいい。泣き言をさんざんはいた後、優しく抱きしめてもらいたい。この願望が断ち切りがたい。この欲望をいかに別の形で昇華できるようにするか。それが今後の課題だ。

匿名掲示板には自由がない

2ちゃん以降の匿名掲示板とか、ネットのコミュニティーの多くが双だと思うのだが、空気を読むことを強要されて、自分の意思を打ち出すことが難しい。「流れ」というやつに逆らうと、村八分にあう。昔のはてなは、その点やや寛容だったと思うし、さらに昔のテキストHP時代は自己主張が強い連中が多く、それがあたりまえのような感じだった。もちろん、だからこそのネット上のいざこざが絶えずあったし、個と個の争いだから、醜くなりがちでもあったように思う。けれども、いまほど集団リンチが横行するような風土ではなかった。某はしごたんにも擁護者がいた。

じゃあ、なぜ集団に自分をゆだねてしまうのか。なぜ自分の心をインターネットのノイズにチューンしてしまうのか。他の人はわからないが、僕は、さびしいからだ。迎合することで、偽りの一体感に加わりたいと望んでしまう。集団心理などたよりになるものでもないのに、同じ気持ちを持ちたいと願ってしまう。

つまりは、依存症なのだろうと思う。だけれども、ほかに心を寄せることも出来ない現状がある。ぐったりとして帰ってきてから寝るまでずっと端末をいじっている。むなしい行為だとわかっているが、自分のことを話せる相手もいないし、趣味につぎ込めるだけのエネルギーもない。こうやってブログを書けるのも、月に一回くらい。

アンフレッシュな新人

社会生活というのをかなりのあいだサボっていたので、どうも会社の人間関係にコミットできない。同僚一人ひとりの行動原理はなんとなくわかってきた。だが、全面的に共感できる人はあまりいない。多少、仲のいい人はいるが、体力がないせいで仕事後に飲みに行くこともできない。すこしずつ、責任が重くなっていっていて、それにしたがって体調不良が頻発するようになっている。たいして仕事量が多いわけでもないのに、ぐったりしているのはなにか普通の社会人に対して失礼な気がする。かといって、普通のひとのように、9時まで働いて、なおかつ飲みに行くなどという体力がない。抑え気味に働いていても、仕事終わったらぐったりしてしまい、土日に出来ることといったらアニメとネットくらいである。それも、書き込んだりとかは怖くてあまりできず、ただ匿名掲示板の流れをじっとみつめている。

非生産的だ。僕は怖いのである。自分がダメであることがばれるんじゃないか、糾弾されるんじゃないか。少しでも自分を出したら、その部分がたたかれるんじゃないか。あとで何か言われるんじゃないか。弱みを出してはいけない。ぼろぼろにされる。けれども、つよがれるほどの強さが無い。ほんとうは愚痴りたい。弱みを受け止めてほしい。けれどもそれこそ甘えであるし、身勝手な依存願望だ。僕が逆の立場だったら、受け止め切れないと突き放さざるをえないだろう。だから、誰にもそれを求めることは出来ない。ただ、独りであることの悲しみを紛らわすために、薬を飲み、流れていく文字列を追っかけている。薬を飲んでいるし、後がきつくなるから酒は飲まない。ただ、全てが物悲しい。

やるべきことはある。スキルを身につけるための自助努力。でも、それを支えてくれる環境が無い。すると、どうしてもおざなりになる。成長よりも心の救いを求めてしまう。不安の根本を取り除かねばならないのに、非生産的な時間の使い方をしている。緩やかな自殺行為だ。年を取れば、さらにつらくなる。僕みたいな世渡りベタは、少しでも技を磨かねばならないのに、気晴らしにもならないネットサーフィンに、救済があるんじゃないかと思い込もうとしている。あまりにもばかげていて、あまりにも悲しい。             

                                                        

愚痴を吐く場所を、1つ失った。

細々とやっていた某顔面帳が仕事上ののつながりに連結してしまい、ブラック企業ネタが使えなくなってしまった。記事をいろいろ消したりしているが、かつての友人に愚痴ったりできなくなってしまったのはかなりの痛手である。これからはムリにリア充ぶらにゃならんのかなあ。ワープア三十代なのに、前向きっぽくみせかけるのって欺瞞だとおもうんだが。

最近は、会社行って仕事して寝るだけで、生活リズム自体は安定している。ただ、人と会ったりするのが異様にめんどくさい。そのため、疎遠になってしまった人もチラホラ。無職時代にあってくれた貴重な人だというのに、我ながら薄情だと思う。思うのだが、いかんせん動く気力がぜんぜんでない。体は健康にむかいつつあるはずなのだが、スタミナはまだまだだなあ。うつ病こじらせたことがある人間なのだから、エネルギッシュには一生なれないのかも知れず、それはそれで切ないものがある。本当は一生懸命生きたいんだけれど、心身がいうことを聞いてくれない。